アイルランド系以外の人々は、マンニックス大司教はオーストラリア、大英帝国に対する反逆者であるとこきおろしました。
1916年から1917年にかけては新兵徴募運動も苦しい展開を見せ始め、血統と宗派の違いによる対立は、決定的なものとなりました。
1916年、義務徴兵制推進論者はそのパンフレットの中に、
「わたしたちは、ローマカトリック教徒が、オーストラリアではなく、アイルランドの支持にまわったことを決して忘れはしない」
・・・と書いています。
義務徴兵制度をめぐる対立が生んだ不穏な空気は、以後30年間にわたってオーストラリア社会につきまとうことになります。
この論争により、労働党内部でも各宗派ごとの対立を生ずる結果となりました。
労働党内で義務徴兵制推進論にまわった人々は、オーストラリア生まれの人より英国出身者に多く、その多くはプロテスタントでした。
ニューサウスウェールズでは義務徴兵制度をめぐる対立により労働党内部のローマカトリックがその勢力を強めた。
1920年、ニューサウスウェールズの労働党選出議員の半数と5人の閣僚はカトリック教徒で占められました。
こうしたカトリック教徒の躍進は、オーストラリア内部におけるアイルランド人の地位向上を物語っていました。
例外中の例外としてサクセスストーリーも生まれたものの、19世紀のアイルランド系移民は、そのほとんどがアイルランド人社会以外の場で影響力を有する地位には就けずにいました。