調査の対象となった90人は、51種にも及ぶ様々な職業に就いていました。


さらに、その半数以上は第二次世界大戦の時に従軍することになります。


人々の関心を最も集めた移民は、オーストラリアの州政府、英国及び英連邦政府が協力して後援にあたった農地入植計画の下に移住していた人々でした。


西オーストラリアで実施された計画は、こうした計画の中でも最も大がかりなものです。


この計画は、英国から75、000人の移民を入植させることを目的としました。


政府は移民を20人ごとのグループで南西部に送り出して酪農業を育成し、あわよくば西オーストラリア内での乳製品自給化を達成しようと期待しました。


しかし、西オーストラリア集団入植計画は、大変大きなつまづきを見せることになります。


計画自体のまずさ、また地質が酪農には不向きであったことも災いして入植者は損害を被りました。


1942年までには、集団入植地を占有する人々の数も1、144人にまで減少していました。


東部の州で実施に移されていた入植計画も、同様なつまづきを見せています。


1923年、ビクトリアでは10、000人の退役軍人を農地に入れる計画がスタートしました。

酪農に関する教育に2週間、耕作に1週間、果樹園と園芸に1週間という具合に、様々なことを学びましました。


もちろん学校の仲間とは皆初対面でした。


バーナード収容所(1870年にトーマス・ジョン・バーナード博士によって始められた貧困児童収容所の1つ)でも同様な計画が推進されました。


1928年に始まったビッグブラザー運動(青年による問題児の教化指導運動。専門家の監督のもとに、篤志家の青年達が特に父親のいない子供達の指導・更正にあたる)は、他の組織とはやや異なった主旨を持っていました。


そのほとんどが中産階級の出身である少年が、オーストラリアの「ビッグブラザー」の道徳指導を受け、またオーストラリアに入植する目的でやって来ました。


1928年末までには1、515人の「リトルブラザー(問題児のこと)」が英国から送られ、その半数以上はビクトリアへと向かいました。


こうした計画は少年達に、「再出発」の機会を与えたものです。


しかし、到着当初に行われた農業指導の効果はうすく、農地に定住した少年は少数にとどまった様です。


1970年代後半には、以前ドレッドノート・トラストの下で職業訓練を受けた90人の少年についての追跡調査が実施されました。


しかし、調査の時点で農業に従事していた者、あるいは引退するまで農業を続けた者の数は、全体の15%にすぎなかったのです。

英国の閣僚の1人であるL・S・エイマリーは、1923年の大英帝国会議でこう発言しました。


「第一次産業に従事する移民の数が多ければ、海外領土もそれだけ多くの仕事を労働者に提供できるということは、当初から明白な事実だ。


従って、第一次産業に従事する入植者を海外領土に定住させる計画は、当然国庫補助に基づく政策の下に進めるべきであるということに何ら議論の余地はない。


移民に対する便宜は、農地入植計画の一環として図るべきだ」。


・・・戦前に始められた計画が戦後もそのまま継続され、より新たな段階を迎えていたことも手伝い、農地に対する入植計画はますます奨励される運びとなりました。


また、青少年の移住に関して特別な関心が寄せられました。


1909年に設立されたドレッドノート・トラストは、1921年から1929年にかけてニューサゥスウェールズに入植した5、000人の少年達に援助を与えました。


少年達は英国内でオーストラリア政府当局者の選考を受け、補助金付きの船の切符を手にして農器具の扱い方、馬の管理方法等の職業訓練を施されました。


こうした少年達の大半は労働者階級出身で、すぐれた農場労働者になることを目指していました。


バーミンガムからやって来たある若者は、後にこう回想しています。


「当時の僕にはこの先どうなるのかもわかりませんでしたし、農業の経験もありませんでしたのですが、年は若かったし、世界は僕にとって宝の山の様なものでした。


僕は1926年、17才の時にオーストラリアにやって来てそのままニューサウスウェールズの職業訓練学校に入りましました。


学校には100人余りの仲闇がいました」。


・・・学校の制度はしっかりしたもので、訓練にあたる職員の大半はイングランド人、アイルランド人、あるいはスコットランド人です。


ここでは1週間単位でいろいろな教育が行われるのです。

1922年から31年にかけてオーストラリアに入国した282、000人の英国系移民のうち、212、000人の人々は英国移住法による援助を受けていました。


そして、そのほとんどは1921年から27年にかけて渡豪してきた人々でした。


ニューサウスウェールズとビクトリアは、それぞれ全移民の3分の1を受け入れ、残りの半数は西オーストラリアへと向かいました。


公式見解によると、帝国内の移住を進めるにあたっての政府の主なねらいは、自治領内の農業を奨ある観察者は英国及び英国領の経済状態を批判しました。


大英帝国が大量の移民を生み出すか否かは、国家の繁栄と、産業界の景気の良し悪しにより左右されるということは、これまでにも何度か指摘されてきています。


・・・ということは言うまでもなく、自治領内へ流入する移民の数についても同じ議論が成り立ちます。


「本国が繁栄の状態にある時には海外領土の農産業も順調な伸びを示し、移民団は急増しても、国家からの援助をあまり必要とはしない」。


こうして第一次世界大戦直前には、毎年900、000もの人々が大英帝国を離れてゆき、そのうちの約4分の3にあたる人々は、帝国内の各国へと向かいました。


しかし、こうした好条件はそうたびたびそろうものではありません。


英国内の長びく産業不況のため、移住一方自治領内へ向かう移民の数は各国の繁栄の度合により励していくことにありました。


帝国移住法は、渡りに舟のタイミングで施行されました。


ほぼ1世紀以上にわたり無制限に移民の受け入れを行ってきたアメリカは、割り当て移民制度の導入を決定しました。


1921年、1924年に議会を通過した法令は、主として南ヨーロッパ人の移住を抑制することを目的としていたのですが、同時にアメリカに永住することができる英国系移民の数にも制限を設けました。


帝国内の国々は、英国系移民を暖かく迎えてくれる移住天国になろうとしていました。


しかし、こうした努力にもかかわらず帝国内への移民の数が、第一次世界大戦以前のピークに達することは2度となかったのです。


しかし、帝国内への移住志向が高まっていたのは事実でした。


19世紀の典型的な英国系移民はアメリカに向かったのですが、1920年代の移民はカナダ、オーストラリアへと向かう傾向にありました。


帝国内への移住拡大へ向けての政策転換が続けられていたにもかかわらず、英国系移民の質は、彼らに高い期待感を抱いていた多くの人々に失望感を与える結果に終わってしまいました。


1932年の上申書の中で、援助を受けた英国移民者の数は戦前の水準の半数にも及ばず、大幅な変動を示しています。

今日は政治・行政における情報基地としての東京についての話をしたいと思います。


東京の情報が日本全土を動かしています。


東京は頭脳であり、日本の四肢を動かす神経源であるからです。


東京には国会があり、自民党本部があり、自民党政調会があり、各中央省庁があり、首相官邸があるからです。


東京という巨大都市の「Tomcat的情報」面は群を抜いているからですね。


花園があるところ蜜バチがたかってきます。


東京という一大情報源の花園に企業という名の蜜バチが蝟集してくるのは自然の成り行きでしょう。


・・・なにしろ、この高度情報化時代を迎えて、情報の遅れが企業の命運を決するのだから。


日本の代表的な企業はほとんど例外なく、東京に本社を設けているのです。


大阪、名古屋に本社を置いている企業でも、かならず"東京探題"を設置して政治・行政の情報をさぐらせています。


大和銀行頭取のある氏、住友不動産社長らは、かつては東京における政治・行政の情報をキャッチするのに敏腕ぶりを発揮したビジネスマンでありました。


氏は住友銀行の"東京探題"としてつとにその名は知られていた人です。


政治・行政における情報基地としての東京を無視して、今日の企業の発展はあり得ないのです。


吉幾三のうたう「俺ら東京さいぐだ」の歌詞を引用するまでもなく、一旗あげるならいぜん東京に指を折るのは、明治時代も現代も変わらないのです。

移住を申請した人のうちの約3分の1が移住を認められ、合計82、196人の人々とその家族が帝国内各国へ向けての船旅に出ました。


英国では戦後の不況が始まっていたため、一部の人々にとって移住は選択可能な就職口の1つにしかすぎなかったのです。


4年間に及ぶ戦争の中を生き延びた20代の青年兵を待ち受けていたものは失業でした。


ついにある青年は妻と共にオーストラリアに活路を求めます。


戦争中15才の少女であったその妻は、わずか6シリングスの週給で1日12時聞もの間、軍需工場での労働に携わっていました。


退役軍人計画も手伝って、オーストラリアには再び移民の流入が始まりました。


戦争中は足踏み状態を続けていた補助金を支給された移民の数も、1920年代になる頃までには再び増加傾向に転じていました。


この当時には英国自体に帝国内への移民援助を積極的に進めていく用意があり、このことが重要な意味を持っていました。


1913年の大英帝国会議では移住に関する活発な論議が戦わされ、その後英国議会は帝国移住法を通過させました。


この法律は1922年5月から実施され、移住計画の推進にあたり英国政府は自治領、政府、官公庁、私的機関と提携する様規定しました。


またその目的は自治領内への入植を進め、渡航費用、職業訓練に対する援助を与えていくことにありました。

前回書いたようなことは、要するに、英国を去った人々は帝国から離れてしまったわけではなく、海外英領土の一翼を担い、その強さとなっているということが理解されるようになってきています。


国民を失うことのリスクは、その国民が大英帝国外の国に向かう時にのみ生じてくるのです。


一見したところ連帯感にあふれるこの大英帝国の理想の陰に、実は身勝手な動機が隠されていました。


英国は人や金を海外領土に送り込むことで、自国の工業製品を無条件に受け入れてくれる市場を得たいと願い、海外領土はその天然資源、ことに農村を基盤とした産業を開発するために移民を受け入れる様に希望しました。


英国が夢に描いた構想は、工業国家である英国を本国として、商業及び国民の間に共通して流れる民族の血を媒介に、農業国家である「娘」にあたる自治領と提携。


その内部で自給自足が可能な帝国を築き上げることでした。


しかし、現実は英国の思惑どおりには運ばなかったのです。


ヨーロッパを戦場とした第一次世界大戦が終結に向かうと、帝国内への移住の拡大に向けて、数多くの計画が実現される見通しとなりました。


その第一段階として英国政府は退役軍人の移住計画に着手しました。


軍務に服した人々は、英国領土の政府に対して移住を申請することができました。


申請が受け入れられた場合、英国政府は個人に代わって移住に要する費用を支払っています。


この計画は、1919年4月から1922年末にかけて実行されました。

つい最近まで移住は失業の増大により、社会の緊迫度が高まった時の必要悪と考えられ、国家の便宜を図る為の手段として容認されていました。


今日の大英帝国を築き上げている海外領土や植民地が力をつけたため、移住が増えたという事実を考慮に入れる人はごく少数に留まりました。


国王の臣民が移住を希望し、その人間が帝国内にとどまろうと帝国外に出ようと、それは本国政府にとって比較的関心の薄い事柄でした。


この結果何百万という英国人が、あるいはその子孫が他の国の市民権を得るに至りました。


ここ数年帝国には差し迫った状況が生じ、人口問題に関する調査が開始されています。


その進取の気象から、また必要に迫られたため、かつて英国を去った人々の子孫は戦争勃発以来、存亡の危機にさらされている帝国を守り抜こうと、帝国内各国から集結してきています。


彼らは、故国英国に自らの運命を委ねているのです。


彼らは、祖国と共に血を流しているのです。


そして


「たとえ大英帝国は海によって分かたれようと、帝国各国に利益の違いはあろうとも、帝国全体の利益は依然一つでかつ不可分だ。


我が大英帝国は運命共同体だ」


・・・という事実を証明しました。

第一次世界大戦終了後、主流派のオーストラリア入によるアイルランド人排斥の風潮にも変化が見え始めました。


労働党内部で得たつてを通じ、アイルランド系オーストラリア人は次第にオーストラリア社会から認知され、受け入れられる様になっていきます。


戦争の結果、オーストラリアには異なった2つのナショナリズムが生まれることになります。


その1つは、自らを独立したオーストラリアの英国人と考え、帝国主義に共鳴を続ける人々のナショナリズムです。


他の1つは労働党と結びつき、あらゆる形態の帝国主義を非難する人々のナショナリズムです。


しかし、帝国の政治家達は戦時中の体験にまた異なった見解を抱いていました。


彼らは戦争により、大英帝国は一層お互いの距離を縮めることができたと信じていました。


そのため戦後の移住計画は、この事実をさらに1歩進めるために必要なステップであると考えました。


1917年7月、退役軍人の移住を検討するために設けられた英国の委員会はこう報告しました。


「調査を進めるに従い、最近英国民の移住に対する認識には非常に大きな変化が生じてきていることが判明し、わたしたちは大きな衝撃を受けている」。

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