英国の閣僚の1人であるL・S・エイマリーは、1923年の大英帝国会議でこう発言しました。
「第一次産業に従事する移民の数が多ければ、海外領土もそれだけ多くの仕事を労働者に提供できるということは、当初から明白な事実だ。
従って、第一次産業に従事する入植者を海外領土に定住させる計画は、当然国庫補助に基づく政策の下に進めるべきであるということに何ら議論の余地はない。
移民に対する便宜は、農地入植計画の一環として図るべきだ」。
・・・戦前に始められた計画が戦後もそのまま継続され、より新たな段階を迎えていたことも手伝い、農地に対する入植計画はますます奨励される運びとなりました。
また、青少年の移住に関して特別な関心が寄せられました。
1909年に設立されたドレッドノート・トラストは、1921年から1929年にかけてニューサゥスウェールズに入植した5、000人の少年達に援助を与えました。
少年達は英国内でオーストラリア政府当局者の選考を受け、補助金付きの船の切符を手にして農器具の扱い方、馬の管理方法等の職業訓練を施されました。
こうした少年達の大半は労働者階級出身で、すぐれた農場労働者になることを目指していました。
バーミンガムからやって来たある若者は、後にこう回想しています。
「当時の僕にはこの先どうなるのかもわかりませんでしたし、農業の経験もありませんでしたのですが、年は若かったし、世界は僕にとって宝の山の様なものでした。
僕は1926年、17才の時にオーストラリアにやって来てそのままニューサウスウェールズの職業訓練学校に入りましました。
学校には100人余りの仲闇がいました」。
・・・学校の制度はしっかりしたもので、訓練にあたる職員の大半はイングランド人、アイルランド人、あるいはスコットランド人です。
ここでは1週間単位でいろいろな教育が行われるのです。