メルボルンでは18人の人々が結社を結び、大学からドイツ語の講議をなくし、ルーテル派の学校を閉校に追い込もうという企みに加担し、オーストラリア生まれの子供達が祖先の言語を学ぶ権利を否定しました。
18人中、少なくとも10人は英国の生まれで、オーストラリア生まれの人も5人含まれていました。
この5人は全員が移民の子で、英国を「故国」であると考えていました。
しかし戦争中の出来事により、19世紀以来オーストラリア社会に根強くあった英国偏重志向も、そろそろ終わりを告げようとしていました。
戦争が進むにつれて帝国に対する忠誠心は次第に薄れ、これにかわって兵隊の仲間意識が軍隊の結束を強めていきました。
英国に戻った移民でさえ、祖国の状態には失望を覚えました。
1917年当時、「我がなつかしの英国」はこう歌われる様になりました。
祖国英国は生ける屍オーストラリアに戻りたいオーストラリア内部でも戦争の勃発により、民族の違いが原因で国家に亀裂を生じさせ始めていました。
戦争がきっかけとなり、民族間の根深い対立が表面化し始めました。
1916年にはダブリンでイースターの暴動事件がおこり、アイルランド系オーストラリア人の同情を集めました。
アイルランド生まれのマンニックス大司教はオーストラリア人同胞に、「アイルランドに自由を」と呼びかけました。